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発表者:武田健吾 2021年5月1日

昨今のコロナウイルスの影響により、かつてほど直接肌で感じる機会が減ってきているものの、時を経るごとに社会要素が様々な面で多様化しており、それに伴い表現に変化が表れていることが増したと思われる。
宗教、性別、人種、民族、国籍など、様々な要素を反映させることが、ある種現代社会における自然な行動になりつつある。
路線バスや鉄道の駅の案内表示に英語以外の言語が用いられていることや、アンケートなどの性別の記入欄に「その他」という選択肢が表れていること、輸入品専門のスーパー以外でもハラル食品を見かけられることなどが身近な一例といえる。
これらは歴史的に多少なりとも社会の日陰となってきた存在が、新しい社会的要素として顕在化し、社会的障害を撤廃していく努力がなされ、その一つとして表現の配慮が行われることが自然と社会に組み込まれつつある。
当然ながらこれらは自然と降ってきたものでなく、同様の活動で日本史に名を遺した平塚らいてう氏の「生きることは行動することである。ただ呼吸することではない。」という言葉にあるよう、今日までの様々な人の努力による成果といえる。
一方で実際のところ、配慮と一言で表現しようにも、全くの中立中道に立ち、全ての存在に対し平等に向かい合うことが厳しいのが現実である。
例えば、人種的なハーフについてポジティブにもネガティブにも捉えることが出来、生物学的な父母のいる家庭を良くも悪く感じうる、というのが事実である。

しかしながら、これらの多様性を鑑みた表現の配慮が広がっていく裏側で、「過去の社会的弱者救済」を大義名分に、新たな社会的要素に対する障害撤廃とは関係ないと思われる領域まで、介入や影響の波及などが起こっているようにも感じられる。
誰もが生きやすい社会を目指すうえで、諸障害の撤廃は必要であるが、そのために例えば表現者を虐げるようでは、本末転倒でないかと疑問を抱かざるを得ない。
とはいえ、表現者が全てにおいて優先されるべき存在であり、表現の自由が全てに先立つかと言えばそれも不適切である。
フランスの新聞社シャルリーエブドでの襲撃事件をはじめとする一連の事件を振り返れば判然とすることである。
このように「多様な人々への配慮」と「表現の自由」は、ある種の二律背反を抱え、距離感が難しいながら双方を追いやることが出来ない概念である。
これらについて、令和の時代にあるべき姿とはいかなるものか、このコロナで閉塞しがちな世相を前に、また国際的なヒトモノカネの流動が再開されたときに向けて、一考すべきではないだろうか。

「配慮」と「表現」を巡る問題については、まさに現在社会が対面している事象であり、ニュースをはじめ枚挙にいとまがない。
性的役割分担、即ち炊事は女性が担うものという概念の伝播につながりかねないという懸念を重く見、高校生からの活動に端を発した「お母さん食堂」の抗議活動。
東京ディズニーリゾートでの園内放送において、来場者の多様性を慮るという観点から「boys and girls」が「everyone」に改まった件。
肌の色の多様性に対する配慮から、花王が「美白」という広告表現を行わなくなった事など、大なり小なり様々なニュースが出ている。

また複数回リメイクが行われている創作作品の中には、脚本上の変更により、原作と異なる表現が図られることも増している。
子供向けの作品として有名な「機関車トーマス」において、原作には登場しない黒人の駅長役や、女性役の機関車などが最近の制作版では用いられている。
度々のドラマ化映画化が行われている「白い巨塔」においても、2019年のドラマ版では作中の野本医師役を原作の男性から女性に変更するといった演出がとられていた。
これらについて、例えばある種の数合わせに女性を登場させているとも思われかねない表面的な改変が、現在の女性の社会的地位の向上にいかほど役立つか、既に他界しているものの原作者に対する配慮などがどれほど図られているか、判然としない部分が多い。
こと映画や小説などをはじめとする商業的な創作作品については、常々リアリティの追求と商業的価値の調整が難関であるとされる。
脚本上の改変において、社会情勢や原作との接合を考慮するのは必要であるものの、あまりに過剰な社会からの無言有言の圧迫は、その作品のみならず将来の創作の幅に影響を与えるという側面を有している。

一方で配慮と表現はあくまで別なものとして扱われている例もある。
ジブリ映画の「風立ちぬ」では、作品の舞台が昭和初期を中心としているため、当時の風俗を鑑みおのずと喫煙シーンが多く登場しており、これに対しNGO団体の日本禁煙学会から苦言が呈されたものの、リアリティを維持するという観点でそれらのシーンは変わらず登場していた。
大正時代を舞台とする少女漫画「ハイカラさんが通る」においても、近年の新装版発行に当たり、作中に登場する現在の価値観などと相いれない表現について、注釈を加えることで原作の表現などを維持している。
新潮文庫の広告として、「不倫は読むもの」「差別は読むもの」「戦争は読むもの」というキャッチフレーズを用いた広告があり、これが朝日広告賞に入選するなど、作品と現実世界の価値観が必ずしも同一でないということを示したこともある。

海外における例ではあるものの、様々な配慮により生まれた表現も存在する。
日本では一般に、性的少数派を総称するものとしてLGBTという表現を輸入し用いているが、タイではそれらを独自に細分化し、ある基準では18の性を設け、各々にタイ語独自の表現が表れているというものがある。
男女平等の観点を重んじるスウェーデンでは、日本における東京駅に当たる鉄道の中枢駅たるストックホルム中央駅でも、広い部屋に個室のトイレのみが並んでいる男女共同のトイレが設けられているといったことがある。

表現の配慮の最前線として、限定的な業界における形骸化した用語というものが挙がる。
主に技術や工業の分野において顕著であり、「メクラネジ」「オスメスプラグ」「マスタースレイブ構造」といったもので、各業界内にのみおいて広範に使用され慣習化されている語句である。
これらはいずれも業界の中と外で認識に隔たりがあるほど、一般的な名詞が持つ意味からはとうに乖離し意味自体も形骸化しているものの、昨今の潮流から業界外から苦言を呈されている現状にある。
しかし、男女性やジェンダーについて論議される場合、より広範に用いられているフランス語やスペイン語などラテン語系言語における男性名詞女性名詞などについては、同様の提言がされていない現状が対としてある。

ここまでの実例を鑑みるに、一概に境界を設けることは厳しく、行政などにしても一朝一夕で的確な対応をとることが難しいと考えられる。
しかしながら、それらを推し量るとしても、「現実に起きている問題」と「歴史的事実・科学的事象」に対し、それらの区別を行わず混合させ、十把一からげに配慮を大義名分として、様々なものに介入し改変を強いることを、正しい行いと判断するのは極めて厳しいと考える。
昨今語られるところのポリティカルコレクトネスの領分であるが、もし政治が全てにおいて優先される「政治第一主義」「民主主義至上主義」「大衆迎合主義」が成立するのであれば、科学的事象さえも捻じ曲げ特定の主義を押し通した中国共産党による文化大革命をも正当化されうることとなる。
事実、文化大革命期の大陸中国では、「赤は革命躍進の色である」という思想から、「赤を停止の色とするのはおかしい」と国際的科学的事象たる信号機の色についても紅衛兵の”介入”を受ける次第となっていたことがある。

えてして、「多様性に対する配慮」も「表現の自由」の双方において、自身側の意見が正しくそのために他者が影響を被るのは「社会的に」やむないと考える人がいると、様々な活動を見ている限り感じられる。
また一口に表現といっても、特定の部分を恣意的に抜粋し強調する「芸術」、特定の存在に対する商業的な利益還元を目指す「広告」など、様々な形態があり、表現を通じ配慮を伝えることを目的とするか、表現自体に意義があるかといった、様々な側面があるため画一的な対応をとることが厳しい。

過去の作品を改変する事や、歴史的事実を修正すること、科学的事象に反する行動を徒に起こすこと、これらについて、今尚社会の一要素として顕化できず、社会的障害のもと苦心している存在に対し、よりよい社会を構築するために意をなすものとなっているか。
「他者への慮り」から「自分以外への言いがかり」に変質していないか。
行動の先にあるものが、平塚らいてうか、文化大革命か、今一度鑑みるべきであると思われる。

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